「これからの心のケアのあり方を考える」
-震災から 1 年半が経過した今、被災者の心のケアと課題
2012年11月17日に宮城大学で開催された「健康と復興まちづくりを考えるシンポジウム 南三陸町コミュニティ復興支援プロジェクト」の分科会 3「『これからの心のケアのあり方を考える』-震災から 1 年半が経過した今、被災者の心のケアと課題」の記録を下に掲載いたします。
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概要
分科会名 | 『これからの心のケアのあり方を考える』 -震災から 1 年半が経過した今、被災者の心のケアと課題 |
企画 | 日本精神保健看護学会 |
コーディネーター | 田中美恵子(東京女子医科大学)、近澤範子(兵庫県立大学) |
報告者 | 松田聡一郎氏(ふくしま心のケアセンター 精神保健福祉士) 赤平美津子氏(岩手医科大学医学部災害・地域精神医学講座 特命助教 保健師) 樫原 祐子氏(みやぎ心のケアセンター 臨床心理士) |
指定発言 | 加藤 寛 氏(兵庫県こころのケアセンター 精神科医) |
記録
田中 朝早くからありがとうございます。日本精神保健看護学会の災害支援特別委員会委員長を務めております田中と申します。本日はコーディネーターをさせていただきます。どうぞよろしくお願い致します。
近澤 同じくコーディネーターをさせていただきます。兵庫県立大学看護学部の近澤と申します。同じく精神保健看護学会災害支援特別委員会に所属しております。よろしくお願い致します。
田中 本日、南三陸町コミュニティ復興支援プロジェクトの中のひとつの分科会をこの日本精神保健看護学会で受け持たせていただけるということで、大変ありがたく思っております。「これからの心のケアのあり方を考える、震災から 1 年半が経過した今、震災者のこころのケアと課題」というテーマで、実際 1 年 6 カ月という時間が経ったのですが、それぞれの被災地、また被災者の方々の置かれている状況は様々であるかと思います。最近では直接の被災そのものだけではなく、様々な生活の問題が複雑に絡み合い、被災者の1人ひとりの方の置かれている状況にかなり格差が出てきているということも、いろんな方面からお聞きしております。そこで、本日はふくしま心のケアセンター、岩手県こころのケアセンター、またみやぎ心のケアセンターでそれぞれ違うケアセンターでお仕事をされ、被災者の支援、地域の復興支援に携わっておられます方々で、専門的には、精神保健福祉士の方、保健師の方、臨床心理士の方ということで、職種はまちまちの方々ですけれども、それぞれ各県で取り組まれている心のケアセンターでの活動、復興のための様々な特に心のケアに重点をおいたご活動についてお聞きして、それを皆さまと共有して今後の心のケアの課題について共有していきたいと思っています。
最初に 3 人の方に 20 分ぐらいずつお話いただきまして、そのあと会場からご質問等を受けさせていただいてディスカッションをしていきたいと思います。1 番目の方は、ふくしま心のケアセンターで活動していらっしゃる松田聡一郎さん、精神保健福祉士の方です。それから 2 番目の方は、岩手医科大学医学部災害地域・精神医学講座で保健師として活動していらっしゃる赤平美津子さん、そして 3 番目の発言者が、みやぎ心のケアセンターの樫原祐子さんで、臨床心理士の立場から活動をされていらっしゃいます。また指定発言者として、兵庫県こころのケアセンターの精神科医でいらっしゃる加藤寛さんにご発言をいただこうと思っております。それでは早速ですが、松田さんからよろしくお願い致します。
松田 みなさんおはようございます。ふくしま心のケアセンター県中方部センターというところにおります、松田聡一郎といいます。資格は精神保健福祉士です。ちょっとお話入る前に、今日ちょっと皆さん、だいたい東北の方がほとんどですかね。岩手、宮城だっていう方はどれぐらいいますかね。手を挙げてもらって。福島の方っていらっしゃいますか。いらっしゃいますね。わかりました。岩手、宮城の方はタイヤ交換されましたか。すいません、今日の反応を見て私、タイヤ交換をどうするか考えようと思ったのですけど。まだちょっと早いですかね。福島もまだ初雪降っていないので、まだかなと思っていますが。
今日はですね、福島県における心のケアの現状と課題ということで、私も現場に出ておりまして、できるだけその現場の温度というのを皆さんに実感していただけるように、ちょっとお話ができればなと思います。まず簡単な自己紹介をさせていただきます。出身は岡山県岡山市です。平成 9 年に福島に進学のために来ました。宮城大学が平成 9 年にできました。だからおそらく 15年、私と同じ歩みをしてきたのかなと、私、福島大学というところだったのですが、福島大学の熊に、琉球大学のハブと言われる、非常に自然豊かなところでして、熊も 2、3 回出ました。私、在学中に。宮城大学も熊が出るということを聞きまして、 今日はなんか親近感を持ってきました。熊はぐみの実が好きなので、ぐみの木の近くに行かないほうがいいそうですね。餌がちょっと少ないでしょうかね、今年は。私は今福島県の福島市に住んでいます。この赤い丸のところですね。いわゆる県北地区と言われるところです。あとからも出てきますので、頭の隅に入れておいてください。職歴ですが精神科病院に勤めまして、そのあと精神保健福祉センターの電話相談員をしておりました。このときにちょうど 3 月 11 日に震災に遭遇しました。そのあと自殺対策専門員ということで、同じ精神保健福祉センターで 1 年働かせてもらって、今年の 2 月からですね、ふくしま心のケアセンターというところで働かせていただいております。県中方部センターと私は言いましたが、県中というのはこの紫の薄紫の区域ですね。郡山市というのがありまして、私が働いている事務所はここにあります。受け持っているのは、もう結構広いですね、この地区とあと川内村ってありますが、ここ、あと葛尾村っていうのもありますが、ここら辺までテリトリーとして活動させていただいています。これは二次医療圏の表ですが、だいたい保健所の管轄ごとに色分けされているので、ちょっとこう使わせてもらいました。ご存じの方もいると思いますが、福島は浜通り、中通り、会津、というふうに分かれています。ただその 3 つの地方もそれぞれ分かれていまして、今日特に話に出てくる部分としては、先ほど申し上げた県北の部分ですね。あといわきの上の緑の部分、ここ浜通りの中でも相双地区と言われているところです。ここのあたりの話が出てきますので、頭の隅にちょっと入れておいていただければと思います。
本日お話する内容ですが、まず東日本大震災と福島ということで、福島ご存じの通り、原発事故がありました。結構被災の大きかった 3 県の中でも特殊性の高い地域ということで、このあたりからもちょっと説明させていただきます。続いて福島の心のケアの現状ということで、今私がふくしま心のケアセンターで行っている活動ですね。 そして福島の心のケアの課題ということで、活動の中から見えてきた課題ですね。比較的にざっくばらんにお話できればと思います。
東日本大震災福島ということで、これ時系列に並べてみましたが、いろんなことがありましたね。福島県は特に 3 月 11 日に地震があって津波が来て、で終わらなかったと、というのは皆さんご存じだと思います。特に 3 月 11 日から 15 日までの 5 日間というのは、ものすごい長い時間に感じられました。この 5 日間のうちに福島の被災というものは、だいたい完成されたかなと言ってもいいかもしれません。ちょっと細かいところは端折りますが、避難指示が発令されたり、爆発が繰り返されたりということでグルグルっとこの辺までいって、ちょうど 3 月 15 日ですね。これ火曜日だったと思いますが、朝 4 号機が水素爆発したと、その後 2 号機で爆発音がしたと。私はまだこの時間寝ていたので、朝起きてその話を聞いて、いや大変なことになったと、言いながら仕事に行きました。この日はですね、ちょうど確定申告の締め切り日だった。私も妻もちょっと税務関係の仕事をしていまして、職場の近くに税務署があったので、ちょっと帰り一緒に歩いて帰ろうかと、ということで帰っていると、ちょうどそのとき福島市内雨が降りまして、このときに線量が急上昇したと。最大で 25 マイクロシーベルトまで上がったと、濡れて帰って、これはまずいなと思って、テレビをつけてどうしようかと思ったら。某大学の先生が、濡れても大丈夫ですと。シャワーを浴びて流せば大丈夫ですと。シャワーが出ないですね。水が出ないですからね。いや、どうしたものかなと思いましたね。非常に困りました。貯めていたお風呂の水で、ちょっと体を洗うぐらいで対処しました。
これちょっと古い図ですが、ここに原発があって、このあたりがいわゆる計画的避難区域と呼ばれたあたりですね。ずーっとこう中通りの一部にかかるぐらいまで緊急時避難準備区域という部分がありました。今はもうありません。今はもうもっともっと複雑になってですね、私もちょっとよくわかりません。帰還困難区域とか、いろいろ名称が変わって複雑になっています。これはまず震災の概要ですね。具体的な数ですが、震災関連死ということで、死者は 1,606 名の方が亡くなったと、これは震災関連死を除いています。全体はですね、 東日本大震災全体の 10 パーセントですね。少ないです。ただし震災関連死だけを見てみると 1,121 人ということで全体の 49パーセントです。震災関連死の定義というのは、なかなか曖昧でして、震災による避難に伴う負傷であったり病気であったり、というところで亡くなった場合に震災関連死を認めるということになっています。今も新聞毎日読んでいると、震災で亡くなった方1人増えた、2人増えたということで今も認定が繰り返され、少しずつ増えていると、というふうな状況です。確かですね、ちょうど 1 年前の 23 年の 9 月末ぐらいで 47 パーセントぐらいだったと思います。飛躍的に増えたというわけではないですが、数としては高止まりしている状態ということが言えると思います。避難者の数ですが、県内の避難者ですね。これは被災 3 県全体で、9 万 9,139 人です。被災 3県、宮城、岩手、福島、3 県のことですが 40 パーセントということで、ちょっとこれ字を大きくしてアンダーラインを入れていますが、間違いでして福島が突出して多いわけではないですね。宮城のほうが 45 パーセントです。 ちょっとここは強調するのはちょっと間違っていますが、ただ被害の程度に比べて、津波の被害の程度に比べて避難者がやはり多いなというところは感じます。県外避難者ですが、これは 9 万 9,000 というのは、これは福島だけですね。3 県だと 25 万人ぐらいいきます。県外避難者は福島県内だけで 5 万 8,608 人ということで、これは被災 3 県全体の 86パーセントということでものすごく突出した数になっています。だいたい福島県民の 8 パーセントが避難していると、というふうな状況でした。こういった特殊な状況が福島の震災、そして心のケアというものに非常に大きな影響を与えているということが言えると思います。
この写真は、かなり津波の被害が大きかったところですね。下が今はもう入れますが、南相馬市原町地区と小高区の境界付近で、ここから先原発あるから入れませんよ、というバリケートのところですね。停まっている機動隊の車両、これ千葉県警の機動隊です。このおまわりさんがいてですね、私のほうに歩いてきていますが、ご想像にかたくない、このあと職務質問されました。結構警備はこの当時厳しかったと記憶しています。東日本大震災と福島、3 つ目ということで、そのとき何が起こったかと、というところです。まず処方薬不足が非常に大きかったなと思います。その対応ということで、処方薬不足、精神科の薬だけではなくて甲状腺の薬のチラーヂンってありますよね。確かチラーヂンの工場が操業できなくなったか何かで非常にチラーヂン不足になったという話を聞きました。ただ流通が止まるというだけではなくて、生産拠点がやられてしまうということもちょっと考えなければというところでした。
あと次に敬遠された福島県の心のケアチーム派遣ということで、 ちょっと昨日調べたのですが、3 月 24 日に福島に初めて千葉の下総精神科医療センターさんが入りました。このときに福島は 1チームだけ、岩手はそのとき 7 チーム、宮城は 12 チームという感じで、かなり差がありました。震災から 1 カ月後の 4 月 11 日の活動中のケアチームは、岩手 12 チーム、宮城 12 チーム、福島 3チームということで、やはり原発事故というものが敬遠を招いたのではないかと言われています。浜通りにある 11 の精神科病院も、実は 4 病院が閉鎖しました。これはさっきも言いましたように双葉の相双地区の 4 病院、800 床が閉鎖しました。今復活しているのが、雲雀ヶ丘病院という病院の急性期 60 床のみです。かなり減っています。大量の入院患者や老人福祉施設入所者が中通りや会津に避難したということです。名前もわからないで来た方もいまして、第何号みたいな、名前の医療保護入院の入院届けのところに第何号と書いてある。非常に異常な事態がこのとき起こりました。精神科の入院患者さんだけでなくて、特養に入っているような認知症の方とかっていうのも、どんどん精神科病院に入ってきたっていう自体も発生していました。ちょっと今後ですね、このときの状況というのは検証されていく必要があるかなと思います。次にこれは県北地域だけの部分ですが、相双地区から転入者数、あと新規入院者数ということで、震災による部分と震災以降ですね。なお入ってきた方という部分で、結構な数ですね。まだ結構在院されている方が多いという部分がいけると思います。
ふくしま心のケアセンターのことということで、福島の現状をちょっとお話ししていきたいと思います。時間的になかなか説明する時間もないので、申し訳ないです。基幹センターというのが我々ありまして、あと市町村派遣とありますが、これは南相馬と埼玉の加須市に駐在というのを置いています。詳しくはちょっとホームページ見ていただければ一番いいと思いますが、あと相双地区のなごみという NPO がありますが、そこに業務も委託しています。ということで 3 県比較しても出先の数が非常に多いというのが、我々のセンターの特徴です。活動の中から数値的なものをちょっと取り上げてみました。飛び抜けて多いのが身体症状、不眠。そのときに不安、恐怖ということが続いています。不眠は、震災直後からずっとやっぱり訴えは私も回って非常に多かったかなと思います。いきなり心というよりは、まず体の症状から入ってくる、あるいは眠れないという部分から入ってくる、という部分ですね、やっぱり現場を回っていても感じられます。ここに 4 月から 9 月までの順位を書いておきましたが、 やはり上位 3 位というのはそれほど、多少の入れ替わりはありますが、変わらないかなというところです。重複している部分もあるので、正確な数とはいいにくいですが、おおまかな傾向はこれでつかめていただけるかなと思います。
あと相談の背景にある原因ということですが、意外とですね放射線の問題はそれほどでもないですね。むしろ家族、家庭問題、居住環境の変化、これは岩手でも宮城でも同じかと思いますが、そういった問題ですね、大きな影響を与えております。家族家庭問題、福島に特殊な問題としては、私は逆出稼ぎと言っているのですが、ご主人だけが福島に残って、お母さんとお子さんだけ県外に避難している、そういうふうな家族がバラバラになる状況というのが、結構あちこちで見られます。あとお年寄りだけが独居になってしまって、若い息子夫婦だけ県外に行ったという場合もありまして、そのことに起因する問題が多くみられるかなと思います。続いてですね、課題のほうにうつっていきたいと思います。
二重のはさみ状格差と書きましたが、 はさみ状格差というのは聞いたことあるかもしれません。はさみ状格差とも言いますが、復興できる人、できない人っていうのに時間の経過によってわかれていると、被災 3 県の中でも福島は見通しがたたないというところで、格差が 3 県の中でも生まれている。なお県外の中でもその中でも復興できる人、できない人っていうのは生まれているっていう、ちょっと二重性があるのかなというふうに感じています。あと日常に取り込まれる震災というところで、これは日常なのか震災の影響なのかが全くちょっとわからなくなって来ましたね、私も。ほんとにここは難しいところです。だから我々が支援している対象の方もこれはもともと精神疾患あったかどうかだよねっていう方とかですね、でもそこには震災の影響がなきにしもあらずというところで、非常にわかりづらくなっているという印象があります。それと関係するのですが、引き起こされた問題と掘り起こされた問題の混在ということで、震災によってトラウマによる影響であるとか、放射線の不安という問題もありますが、逆に仮設住宅にうつることで、もともとアルコール依存症だった方が、見つかりやすくなったっていうか、目立ってしまってですね。掘り起こされてしまう、という問題も起きています。2 つがごっちゃになっていると、というのが福島、宮城、岩手もそうかもしれませんが、状況です。あとここはあんまり言われないのですが、被災によるストレスは当然あると思いますが,復興によるストレスっていうのも結構ある。見通しが立たない中で、これからどうしようというところで、希望が持てない。何をやっても無意味な感じがするというところだと思います。ストレスというのは結構大きい印象があります。
まだまだあります。家族の離別、孤立と、先ほど少し申しましたが、やはり家族が分散していくということは、扶養力というものが減退していく、弱体化していく、ということが言えると思います。今までは家族で支えていたものが、別々になることで、支えきれなくなってですね、いろんな問題が起こる。震災離婚というのもかなり増えているというふうに聞いています。私の同僚が、ある弁護士さん、地方の弁護士さん、福島県外の弁護士さんに聞いたのですが、原子力賠償の相談を受けるために、引き受けた仕事だけど、実際被災者から来る相談のかなりの部分が震災離婚の相談だというふうな話も聞きました。生活問題の拡大と言われます。これ特にお年寄りなんかがすごく大きいですね。住宅環境、地域環境の変化というものに、なかなかまだ適応ができないということで、そこからですね、抑うつ的になったり、不眠が継続したり、ということは非常に多く見られます。
次に放射線不安の潜在化ということですが、他者との摩擦回避を意識した感じ方の違いの潜在化とありますが、これはちょっと具体的に説明しますと、もともと感じ方がそれぞれ違うのですね、放射線に関しては。ちいちゃいお子さんを持っているお母さんはやはり不安に対してかなり敏感です。でももう自分の体にあまり影響はないだろう思う方はですね、それほど気にしない。そういう感じ方の違いっていうのは日常生活の中で摩擦を引き起こしがちですね。自分の体とか子どもの生命に関わることですから、やはりその部分での感じ方の違いというのはかなり決定的、じゃあ摩擦を回避するにはどうすればいいかというと、それを話題に出さない。だから我々がサロンに回っていても、やはりこの部分の話題が最近非常に出なくなっています。個別に相談をするとやはりそういう問題はかなり潜在化して心の奥にあるけど、人の前では言えないよねっていうことを皆さんおっしゃいます。
あと最後生き甲斐の喪失ということで、これが一番大きいかもしれないですね。今まで地域の中だと役割とか、自己効力感ですね。そういったものの機会がなくなってしまっている。それでアルコールに走るという方は結構、私回っている方でもいらっしゃいました。あとお年寄りなんか、やはりこれをきっかけに抑うつになったり、認知症が進んだりということは、現であります。ここの問題、どうてこ入れをしていくかというのは、心のケアだけでは難しいと思いますが、非常に大きな課題だと私は思っています。だいたい 20 分終わりましたので、ということで最後にこれ書いてみました。 これチャールズチャップリンの言葉ですね。「人生はクローズアップでみれば悲劇、ロングショットでみれば喜劇。」喜劇役者らしい言葉だと思います。今の福島の現状、支援者から見ても被災者から見ても、やはり悲劇ですね。ただこれを時間が経過してロングショットで見れば、喜劇とはいかないけれど、あのときこんなことあったよねって振り返る時期っていうのが、いつかくればいいなというふうな気持ちで我々も支援をしております。ということで短い時間でしたが、ご静聴ありがとうございました。
田中 松田さん、実際の活動に基づいた話、ありがとうございました。福島県の置かれたいろいろな特殊性をとても感じることができました。それでは、次は岩手医科大学医学部・災害地域精神医学講座の赤平美津子さんです。どうぞよろしくお願い致します。
赤平 ご紹介ありがとうございます。岩手医科大学医学部災害・地域精神医学講座に在籍しております保健師の赤平美津子と申します。よろしくお願い致します。本日はこのような機会をいただきまして、誠にありがとうございます。そして主催者を始め、関係各位の皆さまに、本当に感謝を申し上げます。今回はこころのケアのあり方を考えるということで、お話をいただきました。私は保健師でありますが、震災前から岩手医科大学の精神科で勤務をしておりまして、発災直後から被災地のこころのケアに携わり、その中で活動してきたことを中心にお話をさせていただきたいと思います。これからのケアを考えるということではありますが、今までの活動をふり返りながら、これからのことを考えていければと考えておりますので、よろしくお願い致します。当大学では今回の被災前から、こころのケア活動を行ってまいりました。今回の震災におきましても、発災直後から DMAT を派遣し、その後、身体科と精神科の混成の医療チームを結成し、被災地の沿岸各地に入ってまいりました。また、今回は大規模災害だったために、岩手県では身体科領域を含めた、いわて災害医療ネットワークを立ち上げ、それにも当大学も出席し、全体の支援状況の共有、今後の支援化体制の方向性を検討させていただく場で、こころのケアについても検討していきました。
被災地におけるこころのケアは、地域にとっては単年度ではなく何十年と抱えていく問題になっていきますので、私たちは地域に入った際は、状況を見ながら、地域のケアの体制を地域の住人と一緒に考えて構築していくということになっておりました。こころのケアの主体は、地域であり、地域が主役であります。私たちは地域の思いを実現させるお手伝いであり、地域に残せるものを考えていくケアを目指しております。
こころのケアチームとしては、発災 2 週間目から岩手県沿岸北部地域に入り、避難所の巡回相談、仮設住宅への訪問、個別訪問、従事者のケアや遺族支援等も行ってまいりました。その他にも、通常の事業ができるように健診会場の準備を行ったり、地域の精神科医療チームとの連携をはかったり、物資の配給の手伝いなども行っておりました。支援では、最初は関係づくりを大切にしてきました。地域の人々は支援者をよく見ています。どんな支援者が来るのであろうか、安心して話ができるのであろうか、どんな人だろうかという思いを持っているようでした。ですから、丁寧な接し方を心がけ、医療者ということではなく、ひとりの人間として礼節を保つように心がけておりました。最初は住民の方から声かけをされないこともありましたけれども、継続的な支援により徐徐に信頼されるようになり、住民同士の口コミで相談室にお見えになる方も出てくるようになりました。現在では、週 1 回開催しているこころの健康相談センターには 20 名前後の相談者がお見えになり、今でも新規で相談にいらっしゃる方がおります。そして特に大切にしていることは、いつまでも変わらない温かみのある対応で話を聴き続けていくこと、被災者のペースやコミュニケーションのパターンに合わせた会話を行い、ご本人のプロセスを大切にしていくこと。また出会いを大切にして、温かみのある出会いはわずかな時間でも相手の心にぬくもりを残しそれが支えになることもありますので、出会いをとても大切にしておりました。なかには体調を悪くしていらっしゃる方もおりました。例えば、身体疾患で治療中の住民の方が相談センターにいらっしゃいまして、下肢のむくみがみられましたので、看護師さんにお願いをして観察しているところです。こころのケアの入り口は健康面から入ることが多く、血圧を測ったり調子の悪いところをお伺いしていく中で、住民の方が心を許して気持ちを話してくださることが多く、看護職としての強みがあると感じています。実際に、看護師さんや保健師さんが血圧を測り、体調面を聞いていくことで安心をして、いろいろこころの問題のことについても、話し始めたということがありました。
このように調子の悪い方がいらっしゃった場合には、活動の前後にあわせて市町村の保健師さん方と打ち合わせをしながら、情報を共有し、栄養指導が必要な方については、栄養指導をお願いしたり、さらに保健師さんの訪問が必要であれば、訪問をお願いをしたりということで、つないでいきました。こちらは発災後のこころのケアのモデル図になります。いずれ通常の保健活動が再開され、従来の地域保健活動ができるようになるよう長期的支援を視野に入れた支援モデルになります。相談の拠点となる来所型のこころの健康相談センターを、村役場、保健所、地元の県立久慈病院とも協力しあい、 4 月 13 日に開所しております。村の唯一の診療所の先生は被災され、相談センターと同じ建物の 1 階で仮設診療所を開設していらっしゃいましたので、連携をしながら、相談センターにいらっしゃった方がクリニックにご紹介をしたり、クリニックで受診された方が相談センターにご紹介いただいたりしております。 こちらが実際の相談センターの場面になります。総合的な相談ができるよう、サロン的な相談ができるコーナー、健康チェックコーナーでは看護師が血圧を測ったり、体調面はどうかみながら、こころの問題があったり、精神科医の診察が必要な場合は、診療コーナーにつなぎ、こころの問題と生活の問題を切り離せないところもありますので、生活の問題の相談ができるよう生活支援コーナーも設けてもおりました。また、話しやすい環境づくりとして、支援に入っていった村のキャラクターの名前を使わせていただき、のんちゃんカフェということで、相談にいらっしゃった住民の方に今日の飲み物を選んでいただいたりと、気軽に立ち寄っていただけるようカフェ的雰囲気が出せるよう工夫しております。この写真は、いつも支援に入ってくださっている教授の大塚先生がお茶を入れている場面です。
活動を通して人は宝であり、人を育てることで地域は変わるということを実感しております。従来の保健活動が戻っていくようにということで、被災 1 カ月の地域の従事者の健康と教育を行っておりました。医療従事者、保健師さん方、保健推進ボランティアさんへ行っていきました。例えば、こちらのたんぽぽ研修会は、住民の方が県内外から支援を受けているうちに、自分たちにも何かできないだろうかという声が自然とあがり、何ができるかわからないけれども、集まって一緒に考えてみようということで、昨年 5 月にボランティアの研修会が開かれました。村の保健師さんが、たんぽぽの会と名付けたのですが、たんぽぽと名付けた理由が、ちょうど 5 月でたんぽぽの花がたくさん咲いており。津波を受けても流れずに強く根をはり、花を咲かせていたそうです。やがて綿毛になって、住民の思いをのせて村のあちこちに飛んでゆき、 また花を咲かせ、その思いが地域へ広がることを願って名付けたそうです。今もその活動は続けられています。実際のサロンの活動の展開がこのようになっており、地域の中で行えるよう私たちも支援を続けております。先ほどのたんぽぽの会のボランティアの方が活動しているサロンの様子です。同じところで保健師さんの健康相談コーナーがあり、こちらでは皆さんがおしゃべりをしていらっしゃいます。こちらもサロンの様子です。こちらの写真は住民の方が肩もみをしながら交流を図ったり、包括支援センターのスタッフの方や、看護師さんが入って体操を行ったり、こちらの写真は仮設住宅の集会所で、大塚先生が鮭と塩の話の健康講話とお琴の演奏会をしながらゆっくりした時間を過ごしていただくサロンを開催しました。こちらの写真はお琴のサロンをきてくださった住民の方でとても笑顔で帰られたというところもあります。そのほかある自治体では、震災前から自治体と岩手医科大学とで相談センターを立ち上げておりました。このボランティアの方々が、被災者サロンを手伝っておりました。
こちらはまた別の自治体での健康づくり大会での健康劇です。被災された健康推進員さんの方もいらっしゃる中での大会で、常に地域にかかわっていた大塚先生も漁師さん役で一緒に出演しておりました。支援者も住民の目線に立って一緒になって地域づくりをしているというところです。保健事業の支援ということを私たちの活動の軸にしておりますが、県全体でうつスクリーニングを地域に広げていくということで10年前から進めておりましたが、このたび村のほうからもこの機会にうつスクリーニングができないだろうかというお話をいただきましたので、一緒に考えて、特定健診の中に取り入れ行いました。健診後の特定保健指導の支援も行いました。従事者のケアも合わせて行っておりまして、行政職員の方は、被災を受けた方々から直接いろいろなお話をされたりと、とても大変な思いをされていますので、従事者ケアも市町村と一緒に行いました。個別ケアだけではなくて、職員全体ということで、ラインによるセルフケアとして部課長への研修を行い、また、健康調査の結果は本人へ返し、その後の相談体制も整備しました。一般の行政職員だけではなく、消防職員の研修も行ったり、被災地医師会への教育研修や高校生の研修も行いました。また県庁内の担当課の合同の研修会も開催し、各課との連携も促進し、その内容を各地域でも広げていきました。このような体制の中で岩手県には全部で 30 チームの他県の医療チームに支援いただきました。平成 24 年 2 月からは県から委託を受け、岩手医科大学がこころのケアセンターを運営し、活動しております。去年までのこころのケアチーム同様、地域保健のレベルを中心に活動を進めております。こちらがセンターの開所式の様子です。岩手県と岩手医科大学の共同事業ですので、大学の学長と岩手県の副知事が一緒に看板を掲げました。
こころのケアの概念図ですが、岩手医科大学の中に岩手県こころのセンターを設置し、沿岸部4 カ所、久慈市、宮古市、釜石市、大船渡市に、地域こころのケアセンターを設置致しました。保健事業の支援、相談室の運営、訪問支援を柱において、地域の行政機関と関係機関と連携をはかりながら活動を展開しております。岩手県はこのように広いことが特徴で、盛岡にあります中央センターから各地域センターへ応援を週に 2、3 回ほど行っており、久慈までは 130 キロ、片道 2 時間半、宮古は 2 時間、釜石、大船渡は 2 時間半かけて地域センターの応援に出向いております。
実際の活動といたしましては、訪問型の支援として、被災地住民への訪問と仮設住宅の訪問をしていますが、お話ししやすいように、保健師や看護師が先に入り血圧を測ながら話を始めてから医療につないだりと、工夫をしながら行っております。最近は、市町村が行う保健事業の中での全戸訪問の協力や、全戸訪問後のハイリスク者への訪問、うつスクリーニング後のハイリスク者への訪問依頼があります。
震災ストレス相談室が沿岸 7 か所に開設しており、相談を受けております。保健活動への支援として、ボランティアの研修会や職域の研修会での講師派遣、各市町村で行われるうつスクリーニングのお手伝い、看護協会の研修会へも伺いました。また地域との連携を目的として、関係機関との連絡会や地域の実務者ネットワーク等に参加しております。
私たちは市町村の地域保健活動に寄り添った活動を目指しながら行っております。それぞれの地域での精神保健体制にそったこころのケアを行うことを意識しながら私たちは活動しております。
次に自殺対策についてご紹介いたします。今年の 8 月に自殺対策大綱が改正になり、その中に被災者の心のケアが盛り込まれました。今後もより重要視されています。岩手県では既に久慈地域でのモデルとして全県で広げられておりますが、なお一層に推進していくことが必要とされています。また私たちの講座の大塚先生が以前より行っております内閣府のゲートキーパー養成研修プログラムにおきましても、被災地編を昨年度作りまして、避難所編、仮設住宅編、知人友人編、アルコール編という内容になっております。こちらは内閣府のホームページを開きますと、ダウンロードができるようになっていますので、皆さん一度ご覧なっていただければと思っています。実際に撮影をするときには、地元の保健師さんや自治体のご協力で作成をして、実際の仮設住宅や、公民館を会場にして行っております。地域でも活用できるように、内閣府と一緒にこのプログラムも広げておりまして、昨日もワークショップを仙台で行いまして、ここに会場にいらっしゃる方も何人か「ワークショップ受けました。」ということでお声がけをいただいた方もいらっしゃいます。
私たちのこころのケアセンターの職員は中央と地域センターあわせて約 50 名ですけれども、県外内から集まっておりまして、いろんな思いで集まってきております。地域で被災をして、今も大変な思いをしているけれども、同じ思いをしている人たちの役に立ちたいという思いの方や、被災はしていないけれども、自分の住んでいる地域、ずっとこの地域で暮らしていくのだから自分も力になりたい、離れていたけれども、地元が被災した。育った土地のために何かしたい、被災者ではないけれども、去年支援をしたので、支援していきたいということで、集まり、現在の活動を続けております。
現在の現状と致しましては、7 カ所にある相談室、家庭訪問と活動、保健事業の支援ということで、地域の要望に合わせて活動しております。実際に相談活動していく中で、住民の方々からは、「励まされるのがつらい」、「私の気持ちをわかってもらえない」、「今後の生活の先が見えない」、「ようやく家を建てられると思ったとしても、それが 3 年後、4 年後だった、なんだかとても先が長く思えてしまった」、「1 年たてば何かが変わっていると思ったけれども、何も変わらなかった」、「私はまだ被害が軽いから、被害がないことが申し訳ない」、「1 年経ったのだから、もう大丈夫だろうと声をかけられるが、全然変わってないのに・・・」、「当時の 1 年半の前の気持ちに自分が戻ったような感じになるときがある」とお話されていらっしゃいました。ひとり一人のプロセスが違っていて、おひとり一人の被災者の声も違うということを今でも感じております。
今後の課題につきましては、被災者の現状に寄り添う対策が必要性ということで、住宅再建、あと復興の先がそれぞれ違っています。その対策も必要と思っておりますし、先ほど話をした中で、お1人お1人の問題も個別化してきておりますので、より1人ひとりに寄り添う支援の継続が必要と思います。地域支援の継続性ということになりますが、地域1人ひとりの復興は時間がかかる場合もあり、地道な活動は継続していくことが必要になります。中長期的なこころのケア対策を継続するためには、財源の確保というのも大きい課題になると感じております。各地域の精神保健活動の充実というところでは、関係機関との連携体制を強化していくこと、従事者が地域に増えていくよう人材を育成していくこと、地域のケアが浸透していくということが大切なことと思っております。
また今後も引き続き地域の従事者の皆さまが一緒に参加して、こころの健康づくりを目指していきたいと思います。これは市町村の保健師さんが作成したリラクセーションのポスターです。村の役場のお手洗いなどに貼り活用しています。
私が 1 年半の活動を通して感じてきていることですが、多職種のチームで連携をしていく中で、看護師、保健師と看護職に関しては、人を見る、そして人を観察する力というのは誰よりも優れているのではないかなと思っております。また健康を見る力もあります。そして地域全体をみて、総合的な考え方を持ってらっしゃる方が多いと思っています。唯一、血圧ができる職種であり、血圧測定というふれあいを通しながら話ができるというのは、やはり強みではないかと感じています。実際にセンターで活動しているスタッフもそのようなお話をしており、これがあるから私たちは、地域の中にはいった際、かかわりやすく、また、住民の方も血圧測定ならとかかわりを持ってくださると。その触れ合いを通しながらこころを許しくださり、自分の気持ちを語ってくれるというところもあるとのことで、こころのケアでの、看護師の役割は大きいと私は感じております。今後も地域の中でこころのケアの活動が広がっていけるように、私たちは願っております。これはいつも支援に入っている地域で、はまなすが咲いているところを写真にとったところです。
これで私たちの活動全体のお話を終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。
近澤 どうもありがとうございました。人と人とのつながりをとても丁寧に大事にされながら、幅広く継続的に展開していらっしゃるご発表ありがとうございました。それでは続きまして、みやぎ心のケアセンターの樫原祐子さん、よろしくお願い致します。
樫原 ただ今ご紹介にあずかりました、みやぎ心のケアセンターの臨床心理士をしております樫原祐子と申します。皆さまのお手元の資料かなり分厚くなってしまっていると思いますが、何をこの今日の機会にご報告させていただこうかと思って、いろいろ書いていたら、スライドにして29 枚になってしまいました。これはとても 20 分の発表の中では全部は話しきれないということで、20 分の中でほんとにその中で特にお伝えしたいことを、抽出して今日はお話させていただこうと思います。宮城県の被災状況も書いてありますが、その辺はまた目を通していただけたらと思います。今日は 17 枚のスライドを紹介しようと思いますが、触れてないところも、またご興味ご関心がおありの方は見ていただければ幸いに思います。
今日は、みやぎ心のケアセンターについて簡単に紹介をして、センターの事業大きく 6 つありますが、その中から住民支援と支援者支援に絞って、日頃感じていることを報告させていただきたいと思います。最後に支援者として、今思うことということをお話しいたします。よろしくお願いします。
まず私が働いているみやぎ心のケアセンターは、宮城県の被災地、被災者支援機関として昨年の 12 月に立ち上がりました。愛称としてコケセンと私たちは呼んでいますが、宮城県の中で気仙沼と石巻と仙台に 3 つセンターがありまして、私はその仙台の基幹センターに所属しております。いろいろ行政と連携をしながらこういった事業を行っているのですけれども、この中の地域住民支援と被災者支援について、のちほど話します。まず 3 カ所にセンターが分かれていますが、同じ宮城県内でもやっぱり被災の特色であったりとか、もともとの風土であったりとか、その中でどれぐらいの支援者が入っていたかとか、いろんな違いがあるので、センターの違いをそれぞれ生かしながら自立してやっていこうと言っていました。違いがあるけれども、共通することとしては、複数の専門職集団であるということ、保健師さん、PSW さん、作業療法士さん、看護師さん、臨床心理士、あと精神科医がいますね。後発部隊だったということもあるので、地域の隙間を埋めていこうということを合言葉にスタートしました。特に当初は市町村が、手が回らないところをお手伝いしようというところで、県の調査が民間賃貸仮設住宅のほうに入って、そこでハイリスクの人を市町村のほうでフォローしてくださいという話が来ました。そういう方の訪問支援とかは、もう市町村の保健師さんたち、ものすごい忙しくて疲弊している状態なので、なかなか手が回らない。そこをじゃあコケセンのスタッフが保健師さんたちと連携しながら、実際の訪問はコケセンの方でやっていくとか、そういうような感じで手が回らないところを手伝う。その中で徐々に専門職としての支援、というふうにだんだん仕事の幅が広がってきているところです。このアウトリーチ型支援というのは、他の 2 県の方はそういうお話があったと思いますが、面接室で待っているとか、基幹で待っているのではなくて、こちらから被災者のお宅に出向いて、地域に出向いて、向こうは、たとえ相談を求めていなくても、何か困っていることはないですかという形で入っていくというスタンスをとっています。地域住民支援というのは、大きく言えば民間賃貸仮設住宅の方への支援、それから津波被災地区に家をなおして住んでらっしゃる方っていうのもやっぱりいらっしゃって、そういう方への支援、それからプレハブ仮設住宅の住民さんへの支援、あとは依頼による方とか、自分から相談申し込んでこられた方の支援です。あとサロン活動、住人さん向けの講話なんかも行っております。この民間賃貸仮設住宅の支援は、記録でみると、4月から8月の間で、だいたい 1,844 回訪問をしています。先ほど福島の方の発表では、その主訴が、身体症状というのが非常に多かったということですけど、宮城も身体症状も多かったですけど、それ以上に不眠と抑うつがすごく多くて、それに身体症状が次ぐという感じで、この辺がどういう違いがあって、どうなるのかなと思いながら聞いていました。
こういう中で、宮城県の方の特徴なのかと思うことなのですけれども、すごく我慢強くてほんとに自分もひどい目にあって、うつうつとした生活を実際はしていたりしても、いやもっと大変な人もいるからとか、ほんとに愚痴や弱音なんて言うものじゃないとか、そういうことでなかなか相談にもつながりにくいし、SOS も出せないし、遠慮もしてしまう方が結構いらっしゃる。そういうことを実感しています。これはすごくいいところでもものあると思うのですけれども。震災による心の傷とか、そういうことを考えたときに、気持ちの表出も進みにくいので、我慢して押し込んでしまっている方ほど、かえって長期化してしまっているのではないかと。むしろ「あのときはつらかったよね」とか、「なんかすごく怖かったね」とか、そういうことを親しいお友だちの方の間とか、家族同士で気軽に話ができるっていう方のほうが回復が早いような感じがしますね。この辺が課題かなと思っていて、そういう SOS を出さない人たちへの対応の難しさ、これは住民支援において、私が今回皆さんからもご意見がいただけたらなと思っているところでもあるのですけれど、ほんとに大変な思いをされている方ほど、自分の心の傷つきを見ないようにする、心を見ないようにする、それによってなんとか日常を送ろうとしているという人たちが、すごく多いと感じています。こういう人たちほどむしろ「つらいんです」と訴えてくる人以上にケアする必要があるのじゃないかなって思うのですけれども、支援の必要性を見逃したり、後回しにしてしまうというリスクとも背中合わせかと感じています。ほんとに青い顔しながら「大丈夫です」って言う方とか、結構いらっしゃいますね。
もうひとつはわかりにくい SOS の人たち。実際にはきっとこれは震災による衝撃が何かあってこうなっているじゃないかなと思う人でも、「いやいやもう震災のことはいいから、もう悩んでないから」「不安になることもない」とか言います。「私の上の階の人がものすごくうるさくて、それが悩みの全てです」と。「上の人がうるさい」「上の人がうるさい」って話される。よくよく聞く中で、例えば「今の時期とかでも、当時のことを思い出してつらくなるっていう方もいらっしゃるけど、そういうことはないですか」とか聞くと、急に大きな声で、「そういうことは考えないようにしてますから!」って言われたりするわけですね。これは一体何を意味するのかって言ったら、やっぱりすごくほんとはすごく傷ついているけれども、とてもそれに触れられない、そういう現状の中でやっぱり生活されているということだと思うのです。こういう人たちも支援を求めてくるっていうことはないので、どう関わっていったらいいのかというのは、難しい。もうひとつはですね、わかりにくい SOS の人たちっていうと、例えば「震災後の対応がなってない」と、市町村にものすごいクレームをつけてくる方とかもいらっしゃる。十分私はケアしてもらってないということをすごく訴える。怒りでもって訴えるけれど、おそらくそういう人たちも傷ついている人たちかと思います。他にも心理的には何も訴えなくても、震災後から体の調子が次々とあちこち悪くなって、病院に行っても内科的な異常はありませんと言われる。でも本人は体がしんどい、でも心は悩んでないよと話しますが、これもやっぱり別の形の SOS の出し方なんじゃないかとは思います。
ただ、果たしてそういう人たちに、心のケアセンターとして、アウトリーチの支援でどこまで支援ができるのかとなったときに、現実、対象となる母集団が多かったりする、これからまだまだ回らないといけないという先も抱えているというのもあったりする。そういう中で、この方たちに関わることが何か助けになるのでないかと思うのは、もしかしてむしろそれはこちらの万能感じゃないかって思うようなときもあります。その辺でどこまで実際に入っていくか、それとももう支援はひとまず終了にするかとか、そういう具体的なレベルのところで日々悩みながらやっています。
いろいろネガティブな側面というか、被災者の方もしんどいし、関わるこちらもしんどくなるような側面は、やはり多いは多い。調査でスクリーニングをすると、いろんな人が出てきますね。医療中断している方とか、引きこもりの方とか、こんなに認知症で結構生活が困っているのに、介護サービスにつながっていなかったとか、実は精神疾患であろうという方だったとか、普段なら向こうから支援を受けたいっていう方以外とつながるっていうのは非常に難しいと思いますけども、そういう方たちへもつながるチャンスだと思います。実際、町の保健師さんも「こんなに引きこもりの人がいたのか」と言われたり。こうやって、もしかしたら通常時以上の丁寧なケアができるということが、まさに地域のメンタルヘルスケアの質的な向上につながりつつあるっていう、そういうふうに考えられるのではないかなと思います。
もうひとつ、この傷つき、回復力はですね、こちらはちょっとお察しの通りですが、こちらはですね、例えば地震でご主人を亡くされたとか、お子さんを亡くされたとか、ひどい目に合われていたりする方とかであっても、そのあとでお友だち同士で励まし合い…自分がそれを受けて、このあとの人生どう生きていくか等いろんなことを考えたり、励まし合ったりする中で、心の回復をされる、元気になられている方もいらっしゃる。そういうのを見るとほんとに人間ってすごくたくましさもある、こんなふうに輝いたりされることも感じます。こういう方に接することが私たちにもすごくエンパワーメントされる経験になっていますし、こういう方が地域の中でも希望になっていくのではないかと感じています。
次は支援者支援ですが、お手持ちの資料だと 21 番のスライドになります。対象者は、行政職員、福祉や介護関係者、仮設住宅支援員やサロン活動に従事している方であったりとか、学校関係者、消防関係者、民生委員です。こういう方たちへの例えば対応困難形成のコンサルテーションであったりとか、カンファレンスやケア会議に出席して、そこでまた意見をお伝えさせていただいたりとか、また支援者の個人の問題を取り扱うという面談をしたりとか、あとは、町としてこれからどんなふうに取り組んでいくかというあたりでの相談に乗ったりとか、そういうことをしています。それをする中で感じるのは、特に行政職員と仮設住宅の支援員さんとかもそうですが、非常にやはり疲れていますね。特定の行政の職員さんに、被災者支援業務が集中するみたいなこともあったりして。業務量の増加と、見通しがなかなか持ちにくい業務内容だとか、いろんなことでへとへとになっていらっしゃるなという印象を受けています。
もうひとつは自らも被災者でありながら、支援し続けるということの大変さということも感じてます。それこそ支援者の方って人を支えるということで、いろんな人の話は聞きますが、自分が誰にも話をしたことがなかったっていう方なんかは案外いらっしゃる。自分の話したことなかったって、泣きながら話されたケアマネさんだったりとか、ふとした話のときに被災の話になると涙出てきてしまうという行政の方だったりとか、あとこれは特殊かもしれないですが、仮設住宅の支援者さんが自分も仮設住宅に住んでいて、もう仕事が終わっているはずの時間なのにピンポンって来られて「こういうことで困っている、なんとかして」と言われる。プライベートも何もあったものではないと。いろんなことが起きています。
住民の方も自分がメンタルヘルスケアを必要だと思っている方は非常に少ないですが、支援者の方はそれ以上だなということも感じています。「困っていることないですか」「つらいことはないですか」と言っても、「いやー…」と出て来ないですけども、話していると実質的なそういう話がポロポロ出てくるということは、結構あるなという印象です。
次は、これはプレハブ仮設住宅の支援者の支援において感じることですけれども、住民の人のごく一部のお話でありますが、震災による傷つきとか、怒りとか将来への不安、抑うつ感とか、抱えきれない感情とか気持ちというのはあって、それが世話をする支援者さんに投げ込まれていることが起きていると思います。例えばですね、安否確認で支援員さんが訪問するともう引き留めて、引き留めて、何時間でも話をしたがる方とか、集会場で昼間から酒盛りを始める方たちであったりとか、テレビのリモコンが動かないとか電球が切れてしまったとか、そういうちょこまかした用件でも支援員さんを呼び出す方とか、仮設住宅の自治会の資料を代わりに作ってくれという方であったりとか、女性支援員さんになかばストーカーのようについてまわる男性住人さんとか…こういうことが起きている。過剰なぐらいの要望とか、甘えがあったりする。すごくその辺が支援員さんにしたら、いったいじゃあどこまで応じたらいいのかとか、応じるのはおかしくないだろうかとか、でも支援者だからやってあげるべきじゃないかとか思う。やってあげるのもなんだかすごく変な気持ちだし、やってあげないのも罪悪感があるという、そういうはざまの中で迷いながら、一生懸命支援される方ほど迷いながら過ごされています。これはどういうことが起きているかと思ったときに、そこには住民さんたちの中の傷つきから、退行が起きているかと。心理的な退行というのは、これはより安心できる段階に戻って、それはよく出れば自分を元気にする力にもなるけれども、これはちょっと悪い形で出てしまっている。世話をして欲しいという気持ちがすごく強くて、それがひいてはやってもらえるのが当然というという前提になる、思ったように応じてもらえないと怒り出す…。心の中で起きることと現実的なこと、常識とか、それが食い違ってくるとこういうことが起きてしまう。支援員さんっていうのは、そういう住民さんたちからするとまるでお世話をしてくれるお母さんみたいな立場になってしまう。あとはそういう中で退行していることで、現実原則が希薄になって快楽原則が占めるようになる。現実原則というのは、例えばこれからの先々の生活を自分なりに考えてお金が入ってきたら、それはじゃあ将来のために貯蓄しようかとか、そういうふうに考えられるのが現実原則です。快楽原則というのは、未熟な段階に起きる心の中の動きで、今すぐ自分を満たしたいとか、今すぐ満足したいというような心の動き。例えば義援金を結構もらうと、全部パーッとパチンコに消えてしまって、それで生活費がないよって支援員さんに訴える人とか。こういう人もやっぱりいらっしゃるんですね。
また支援者への分裂(スプリッティング)っていうのは、あの人はいい支援者さんだ、あの人は悪い支援者だとか極端になること。要望に答えてくれる人はいい人、そうでない人は悪い人とか。同じ人に対しても「○○さんがいるから助かるよ」「このペンケース作ったから事務所で使ってくれ」みたいな感じで持ってくるのに、その同じ人が別の日には市役所に「あいつを辞めさせろ」とクレームを言いに行ったりとかする。例えば支援員さんがそれしちゃ駄目ですよということをボランティアで一時的に入った人が「いいですよ」なんて言っちゃうと、「ボランティアの人たちはいい人だけれど、お前たちは…」みたいなことが起きやすい。そういう環境があるなということを感じています。こういうことに仮設の支援員さんは、多かれ少なかれ対峙しなくてはならなくて、迷いながら、苦しみながらということが多い。その辺をこちらで支援に入るときには、じゃあ一体何が起きているのか、その上でどう対処するといいのだろうかということを一緒に考えたりしています。
あと最後に支援者として思うことですが、これは 27 枚目のスライドになりますね。いろんな喪失感とか恐怖感とか不安感とか、こういうネガティブな状況に向き合おうってすること自体が支援者の共感疲労や、無力感、何が正解かわからないとか、これは役に立っているのだろうかという感覚につながる。そういう不全感、手応えの得にくさとか。心のケアセンターは業務内容が構造化されてない、内容が決まっていない。実際の被災者、被災地のニーズにあわせて、できることを考えていくというスタンスでいるので、そういうことをゼロから掘り起こしていくというところからスタートしているので、そういう不安定感もある。ずっと今でも手探りできているところがあると思います。やっぱりこういったことが、支援者の中でもいろんな気持ちを引き起こしたり、疲れたり。そういう意味でも何が自分自身に起こっているのかということを、意識化するのが非常に重要ではないかと思っています。
町のことも少しずつわかってきて、つながってきました。その中でやれてないこととか、やれるといいなと思うことも見えてきたけれども、実際のマンパワーとのバランスで、難しさも感じています。そういうことでだからこそさらに支援者間とか地域との連携とか、交流がさらにさらに大事になってくるなと、つくづく感じています。以上で発表を終わらせていただきます。ありがとうございました。
近澤 樫原さん、ほんとにありがとうございました。支援するものは、その前に SOS を出しにくい方々への支援の、ほんとに難しさと支援者の体験するほんとうに心の葛藤や、心理的な問題を丁寧にお話しくださいましてありがとうございました。
近澤 本日は指定討論者として、兵庫県こころのケアセンターのセンター長、加藤先生にお越しいただいておりますので、それぞれのご発表と、この質疑応答を踏まえてご発言をいただき、また残りの時間に向けて先生からのご質問もいただければと思います。はじめに、加藤先生をご紹介させていただきます。阪神・淡路大震災のときに、先生は東京から支援に駆けつけてくださいました。当初、たまたま避難所の活動で先生とご一緒させていただいたことがありますが、そのときに先ほどの赤平さんのお話とも重なりますが、「看護師さんはいいですね、血圧計を持ってそばにいけるから」とおっしゃられたことが強く記憶に残っています。先生は「心のケアにまいりました、というふうに関わることはとても難しいですと」とおっしゃられました。そのとき、私たち看護職の心のケアに関する強みを気づかせてもらったように思います。先生はその後、阪神・淡路大震災の被災者支援にずっとお力を注がれまして、兵庫県心のケアセンターの立ち上げから、その活動を担って来られ、現在はセンター長としてご活躍なさっておられます。また、日本トラウマティック・ストレス学会の震災特別委員会委員長として、東日本大震災後の支援活動を精力的に展開しておられます。先生、どうぞよろしくお願い致します。
加藤 丁寧なご紹介ありがとうございます。加藤と申します。私は心のケアセンターという名前を、この 18 年近く肩書きに背負ってきましたので、元祖コケセンといってもいいかもしれませんが、そういう立場で多分今日は来てくれというふうに言われたと思います。ただ今日のお三方の話を聞いていると、まだ災害から 1 年半たった時期で、なかにはまだ半年しか活動されてない方がおられるにも関わらず、ご自分の活動をよくふり返りながら、方向性をちゃんと認識しながらやっておられることをお聞きしてとても感心致しました。多分私たちが阪神のあとに 1 年半たった頃っていうのは、まだ暗中模索と言いますか、何をしていいのかわかんない状況で、その頃スタッフがこんな話ができたかっていうと、とてもできなかった状況だったと思います。本日の、皆さんのお話にとても感銘を受けました。
私も東北にはかなりの回数来ておりますけれども、ほんとうに皆さんが被災地の中で頑張ってこられたということに対して、ほんとうに敬意をここで改めて表したいというふうに思います。それで松田さんがおっしゃったことですけれども、やっぱり今回の震災の最大の特徴は、とても地域が広いということですね。ほんとうに北は岩手、青森からずっと下は茨城まであって、それぞれがいろんな問題かかえながらやっていて、なかなかその統一的な方向性っていうのは出しにくいし、もともと抱えている問題も違うし、ましてや福島は原発の問題があって、地域ごとに問題が違う中で、やっていかなきゃいけなかったということが、大きな特徴だと思います。福島と宮城、岩手が違うということは当然として、実は岩手や宮城の中でも相当な違いがあります。私はずっと気仙沼というところに、月に 1 回行かせていただいておりますけれども、宮城県の中でも気仙沼というのは、他の地域と比べるとかなり状況が違っております。というのはなかなかそのマンパワーが確保しにくい、支援に行こうにも住むことができないので、そこに居つくことができないので、なかなかその外からの支援がしにくいという状況の中で、とても苦労しながらやっておられるというようなことがあります。
そういう地域のいろいろな差ですね。これを見つめながらやっていかなきゃいけないということが、今回の活動にとても難しいところだろうなというふうに思います。あとこれも松田さんがご指摘になった「はさみ状格差」と言われている問題が、これからどんどん目についていくはずです。ほんとに自分の意志に反した形でのいろんな生活再建ができた方、それさえできない方の差も当然出てきますし、あとは仕事を持っているか、持っていないかというという差も大きいと思うので、その辺をどう認識しながらやっていくかっていうことだと思いますね。これが今後のその大きな活動のひとつの着目点じゃないかなというふうに考えます。
また、心のケア活動っていうのは、どういうふうな方向性で考えていくかっていうことも、これからの大きな課題です。先ほど樫原さんだったかな、構造化されていないのでとても不安だっていうふうにおっしゃいましたけれども、これは実は逆に考えると構造化されていないところが、ひとつの強みでもあります。要するに問題を発見していって、それに対応していくっていうことを、しなければならないし、それをしていける仕組みにしなきゃいけないと思うのですね。私たちがやったときも、たまたまいろんな役所的な手続きの関係で、兵庫県の心のケアセンターっていうのは、民間のある任意団体が請け負うかたちになりました。そのやり方が踏襲されて、たとえば新潟の中越地震のときもそうでしたし、今回も宮城と福島では、民間の任意団体が、岩手では岩手医科大学が請け負ってやっています。これはですね、逆に考えると役所がやらなかったことのひとつの利点もあります。というのは役所っていうのは、ある程度その最初の方向性をたててしまうと、それにのっとってずっとその計画をやっていかなきゃいけないという、しばりを受けてしまいやすい組織ですね。そうじゃなくて民間で請け負えたということは、問題が見えたときに修正していけるという意味で、とてもその柔軟性が発揮しやすいということだというふうに思うので、構造化されていないということは、ひとつの強みにしていただければいいのでないかなというふうに思います。たとえば私たちの例で言うと、阪神のときも、県外に避難していた方とか、あるいは県外にできた仮設住宅というのがあった。兵庫県の外の大阪府の中に、仮設が結構作られていて、そこに兵庫県で被災された方がいっぱい入っていました。しかし、兵庫県を出てしまうと、なかなかその支援のその網の目に引っかかってこないという問題がありました。兵庫県の行政でいうと、大阪府に出てしまうと、もう一切サービスが提供できないという状況になります。これは多分今でも起こっている問題かと思います。心のケアに関しては、そのときの組織が民間団体だったということがひとつの利点になって、大阪にも拠点を作って組織を拡大しながら活動したんですね。そういう柔軟性が発揮できるというふうなことがひとつのこれからの方向性じゃないかなというふうに思います。それと当然これから被災者支援においては、心の問題っていうのは大きな課題になってくるわけですけれども、先ほどおっしゃっていたように、SOSは皆さん出してくれません。たとえ関係性ができたとしても、心の問題については、ずっと触れないままです。もうほんとに生活がしんどいとか、人間関係がしんどいっていうことしかおっしゃらないようになっていきますので、そこをどう扱うかということですね。これがとても難しい課題で、僕らもまだこうすればいいっていうようなことは、ここでお話できないけれども、ひとつはやっぱり生活再建をしていく中で、その方がどういうふうなことができたのか、あるいはそのどういうふうな生き甲斐を持てたのか、っていうふうなそういうポジティブなところに光を当てて、そこを評価していくっていうことですね。言葉を変えると、その人の回復力を信じて、その回復力をエンパワーしていくっていうふうなことが、大事なことじゃないかなっていうふうに思います。
あとは、松田さんもおっしゃっていたのが、地域に残せるシステムになればいいなっていうふうに、おっしゃいましたね。これもほんとに大事な視点です。せっかくこれから東北の場合何年やるかわかりませんが、少なくとも 5 年はやるはずです。阪神のときには 5 年間やりました。5年間でお金がなくなったので、もうそこで終わったけれども、多分東北の場合には、もっと長いスパンでやっていかれるはずです。そうなるとやっぱりこの活動をその後の精神保健、地域の精神保健システムの中に生かすということを考えていったほうがいいわけです。岩手なんかは自殺予防のシステムが非常にもともとあったので、そこを発展させようということで、今でも意識されていますけれども、この活動をなんとかその根付かせて、これまでやってこられなかったことをやれという姿勢も大事だというふうに思います。私どもの例で言うと、18 年前っていうのは、今と違って、精神障害者の地域内での支援はほとんどまだ発展しておらず、作業所とか、グループホームということが全体的に不足していました。都市部であった神戸でもそうだった。だからこの心のケアセンターを作ったときに目論んだのは、その資金の一部を使って、地域の中にグループホームを出したりとか、作業所を作り、地域内の精神障害者ケアを充実させようとしたのです。3 億円の年間予算がありましたが、そのうちの 3 分の 1 の 1 億円はそれに費やしました。その後 5 年間たったときに、その建物とシステムが残ったので、それを民間の方にそのままお譲りして、今でもそれを続けていただいているというようなことが残っています。そういうなんか残せるものがあるといいのかなっていうふうに思います。これは地域によって必要なものが違うので、それがそれぞれの地域にあった方法を、テーラーメイドで考えていかれればいいことだというふうに思います。
あとですね、ご質問された方が話された、職種を超えた連携といいますか、いろんな多職種が混ざっている意義ということですね。これについてはひとことで言うと、そのことがそれぞれの人間の成長の糧になります。例えば臨床心理士というのは、先ほど樫原さんが言ったけれども、教育としてはですね、ほんとに相談室できちんとその枠を作って、治療環境をきちんと作って、それを超えないように、超えないようにというふうにするのが、臨床心理士のやり方だし、それがとても大切なところにある。ところが今回の災害の状況であると、それに固執していると、なかなか活動が充実していかないわけです。やっぱりアウトリーチをして、被災者のもとにいって、その人が求めていることをやるというようなことをしない限りは信頼されないし、その心のこの字も語ってくれないということになるので、そういったやり方をしていくわけです。それはやっぱり臨床心理士としての自分の考え方の変化につながっていきます。これまでの学んできたことだけでは、足りないというようなことに気付けるわけですね。だから僕らの組織では、臨床心理士の中で、早く辞めた人っていうのは、そこに違和感を持つ人たちが多かったです。もうこんなやり方は、私たちは違うから、もう辞めたっていうふうに、辞めていった方たちもたくさんいます。ただ逆に何年かいて、なかには最後までずっといてくれた方たちはいるけれども、そういった方たちは、とても成長しました。その後もいろんなその犯罪被害者支援とか、虐待を受けた子どもたちの支援とかに携わっている人たちも多い。被害者支援っていうのは、その人人間全体を見る視点を持ってないと、生活全体を見る視点を持ってないとなかなか難しいですね。心理という視点だけでは不十分な訳で、多職種が連携するっていうのは意識してないと、なかなか難しい仕事なので、そこにその今でも 5 年間心のケアを終えたあとに、ずっと残ってくれて、兵庫県の犯罪被害者支援センターを立ち上げて、というふうなスタッフもいたりとかして、非常にこう広がっていきます。僕自身ももともとは、ほんとうに普通の精神科医だった。この活動を通して、こういった災害の場面では例えば白衣を着るなんていうことは御法度だし、心とか精神科ということを強調するのは、ほとんど意味のないこということを学んでですね。また、アウトリーチ、つまり地域の中に浸透していく方法っていうのを学ばせていただいたということがあるので、自分の中ですこしは成長につながったという意味があると思います。
それと、自分の役割が見えにくいというのは皆さんおっしゃいましたね。自分たちが何をしたらいいのかわからないということです。確かに被災者に接することができても、すぐに被災体験を話してくれるわけではないし、健康のこととか生活のことしか言ってくれないから、なかなか自分たちは何をすればいいんだろうというふうに思います。保健師さんであっても、なかなか難しい面があるでしょう。心のケアセンターでやっている以上、なんかやっぱり心のこともやらなきゃいけないというふうに思うわけだから、保健師だから健康のことだけ見てればいいというわけでもないので、自分のアイデンティティが見えにくくなってきます。じゃあ何を役割とすればいいのか、ということですけれども、これも僕いまだにわからないのですが、あえて言うとすると多分、被災者の代弁者になることです。擁護者と言いますか、代弁者になることですね。彼らは、なかなか言ってくれないわけです。心の問題っていうのはね。でも少しずつ関係ができてくると、いろんなことをもらしてくれることがあります。例えば遺族の方のほんとに岩のように動かない悲観の問題っていうのは、これは例えばグリーフケアをしましょうっていって集まってもらっても、すぐに披瀝できるものじゃありません。ほんとに長い関係ができた中で、初めて言ってくれるようなことが多いので、それを聞いた、やっぱり心のケアのスタッフたちが、それをかみ砕いてほかの支援者に伝え、理解してもらうというふうなことですね、そういう擁護、アドボカシーというふうな言葉がありますけれども、そういった役割がとても大きいというふうに思っているところです。
最後に指摘したいのは、この心のケア活動というのは、役割も見えにくいし、なんか成果も見えにくいし、今回の場合であれば国からやれやれって言われて、いろんな業績を求められるという、とても大きなプレッシャーもあります。あとは地域の中では新参者ですから、県や市町のもともとある組織から、あんたたち一体なあに、みたいなことも言われ続けます。そうなるとやっぱりそのスタッフのモチベーションをどう保つか、あるいはスタッフが辞めないようにどうするかっていうふうなことも大きな課題です。私たちは失敗例で、最初は 60 人ぐらいいたスタッフは2 割しか残らなかったです。やっぱりこのことは、ほんとに苦い経験として東北の方には最初から正直にお伝えして、そうならないようにしてくださいと申し上げ続けているけれども、そこを今後どうされていくかということが、ひとつの問題でしょうね。今回、多分 3 県の現場のスタッフたちが、こういうふうに集まってほんとにいろいろ活動をお互いに話すことができる機会ってあんまりこれまでなかったはずなので、今回こういう機会を持っていただいたことは、とてもいいことだなって思います。ぜひこういったことを続けていただいて、僕の夢としては、実は、兵庫にもまだ心のケアセンターありますし、新潟にも心のケアセンターあります。この 5 カ所の心のケアセンターでそういう連合会でも作ったらいいかなというふうに考えているところです。それとですね、モチベーション保つことのひとつのやり方っていうのは、やっぱりできたことを評価することです。できないことばっかりです。活動をやっていると、あれもできてないし、みんなから怒られるし、もうどうしたらいいのだ、ちっとも役に立てないわっていう、自己不全感ばっかり感じるのですが、それでもやっぱりできたことっていうのはある。この地域の中に浸透していく活動の中では、それをやっぱり評価していくっていうことがとても大事なことじゃないかなというふうに思います。
(質疑応答省略)
田中 ありがとうございました。宮城大学の学生さんたちもたくさんボランティアなどで、活躍されたとお聞きしています。今日のお話が、学生さんたちにも役立つのではないかと思っております。加藤先生には、阪神淡路大震災からのこころのケアセンターのご経験に基づいて、とても有益なご示唆をいただいたように思います。加藤先生が、ご提言いただいたように、ぜひ心のケアセンター同士のネットワークのようなものを今後につなげていっていただきたいと期待しています。阪神淡路大震災のご経験の積み上げやご苦労が、今回の震災に、実はすごく目に見えない形でとても役に立っているということがわかり、今日の 3 県の方々の活動の中にも活かされているということを改めて感じました。
被災者支援ということについては、心のケアに対するタブー意識は、阪神淡路大震災のときに、少し減ったかと思いますが、今回は大きくそれを超えた、単に震災の支援というものを超えた、地域での新しい心のケアのあり方、運動といった新しい実践の展開を作られていることを感じ、大変感動しました。ご苦労が多々あると思うのですが、地域の中で回復されている方の姿に励まされるというお話もありましたし、今後もそういうことがきっとたくさんあると思いますので、そういったところに希望をつないでいきたいと思います。また今日いろいろなお話共有させていただいたことを、参加された皆さまお1人お1人が、ご自分のところに持ち帰っていただき、今後の活動に活かしていっていただくことができるのではないかと思います。
参加者の皆さま、ご協力、ご発言ありがとうございました。報告者の方々、加藤先生ありがとうございました。
(終了)
2013年1月27日更新